平本 そういう中で変化を求めて、研究をされるということは現在もなさっているのでしょうか?
小高 日々変えていくということは今はやらないですね。私どもの時には、弟が助けてくれて、毎日のように夜お店を閉めると2人で何かやっていましたよ。
平本 新しい味を実験されていたんですね。
小高 お前の店の味は毎日違うねって言われたこともあるくらいです(笑)。鰹節の量が毎日違うんだからそれは味も違いますよね。それでこれは良かった、これは悪かったとか見極めていってね。そしたらある時、ヒゲタの印藤さんという方がいらっしゃいましてね、「まつやさん、もうこの味でいった方が良い。もう悩むこと無い」って言われましたね。
平本 味がもう美味しいものに決まってきたということを教えて下さったんですね。
小高 私は、せがれの代で変えるところは、これからもあると思いますけどね。
平本 なるほど。この味で大丈夫と教えて頂いたのは、お店の蕎麦を手打ちに変えてからどれくらい経った時期だったのでしょうか?
小高 おそらく昭和45年にはもう味を決めて、それから変えてないですね。全部手打ちにしたのが昭和37、8年くらいですね、昭和32年に私は学校を出ましたから。だから10年以上は試行錯誤をしていたんですね。
平本 慶応義塾大学を出られてすぐ「まつや」に入られたと先程伺いましたが?
小高 本当はよそへ勤めに出さしてくれって親父に頼んだんだけど、人手が足らないっていうもんだから出してもらえませんでしたね。うちの親父も出ていないんです。祖母はどこかへ出さないといけないとずいぶん言ったそうですが、祖父は自分が苦労してお金を残した男だったものですから、やっぱりあまやかしちゃうんですね。私もせがれを出さなければいけなかったなって反省しています。
平本 外に出るというのは、他のおそば屋さんや全然別のところに一度就職させるということでしょうか?
小高 そうですね。要するに、よそに行って人に使われる辛さを覚えさせたかったんでしょうね。そういうのをやっていないんですよ。
平本 皆さん、学校を出られたらすぐお店に入られてお父様、お祖父様に習われたんですね。
小高 そうですね。うちの親父はほとんど仕事しないですんだ人ですからね。母が大変でしたね。酒屋のせがれの嫁になったら蕎麦屋を押し付けられちゃって、自分の旦那はよく夜更かしして帰ってくるし(笑)。母のことを思い出すと涙が出ちゃいます。しっかりした人でしたよ。子供は甘やかさなかったですね。厳しかったです。
平本 そうやってお店の味がどんどん出来上がっていって……。
小高 いつの間にか忙しくなりましたね。特に去年の大晦日は大忙しでしたね。せがれがNHKの「情熱大陸」という番組に出た影響があるんでしょうけど。あと、「薮そば」さんが10月に再開されましてね、それでこの辺はお客様の数が増えちゃったんですね。だから喫茶店もそうですけど、甘味処の「竹むら」さんも行列作るようになっちゃって。
平本 そうでしたか。去年の大晦日は大変だったんですね。
小高 それまでも大晦日は1時間半、2時間待つということは普通にありましたけど、今回の大晦日は行列の人数が違いましたね。お土産なんか5時頃に全部売り切れちゃいましたし。
平本 大晦日は12時まで営業をされていると伺いました。
小高 12時なんですけど、実際にはお客さんが帰られるのを待つと結局1時頃までかかっちゃいますね。
藪さんはもっと遅かったですよ。昔はおそば屋さんていうのは、明け方まで商売をやって、そこで皆従業員の人とお雑煮を食べて、それから朝10時頃まで仮眠をしていましたね。10時頃になると「そば屋は何時まで寝てるんだ」って戸を叩く人がいたそうです。今寝たばかりなのに(笑)。