中山寛子(スタイリスト)×平本正宏 対談
収録日:2011年12月5日
収録地:渋谷区松濤
対談場所:ご自宅
撮影:moco
<「スタイリスト」の黎明期>
平本 日本で初めてスタイリストを名乗られたのがカンコさんなんですか。
中山 いえいえ、先輩はいましたよ、いっぱい。ただ、職業を表す「スタイリスト」という言葉が出てきたのが、ちょうど私が始めた頃にあたります。
高橋靖子さんという先輩がいらっしゃるけれど、彼女のあたりからその言葉が浸透し始めたんじゃないでしょうか。
私は編集者からフリーになって、ぐだぐだやってるうちに何となくそういうふうになっただけ(笑)。
その頃は雑誌だとかテレビだとか、情報を得る手段は限られていて、どこで情報を得ていたかというと映画。特にフランスかぶれ。どこへ行っても溢れんばかりの満席でした。
平本 それがいつ頃の話でしょうか。
中山 1960年代。
平本 篠山紀信さんがフリーランスになったのもその時期でしたね。
中山 そう。その当時は、こういう仕事に関わる人が少なかったこともあって、業界人はみんな顔見知りみたいな感じだったのね。篠山さんとも直接話したことはないにせよ、新宿のバーで見かけたり。
フリーの編集者になってみると、企画を出し、記事を書き、校正をするといったふうに全部やらなくてはならなかった。でも、それを続けていくうちに、スタイリストとしてだけの仕事が多くなってきたわけです。
平本 スタイリストを始めるにあたって、最初に出会った大きな存在は誰でした?
中山 それは篠山さんですよ。篠山さんの当時のマネジャーと面識があり、その人に一緒に仕事をしないかと誘われたんです。「彼の写真は好きじゃないかもしれないけど……」っていう誘われかたで(笑)。
で、チャレンジしてみると、それまで私が作ってきていた女の子相手のほんわりした雑誌と、篠山さんの撮るドカーンとくる写真との差を感じて、本当にショックだった。
「明星」や「週刊プレイボーイ」の表紙を手がけていたんですが、篠山さんはストレートに色っぽさを追い求めていて、女の子の可愛さを表現しようとしていた以前の自分の仕事とは、水と油のように相容れなかった。それだけにショックが大きかったんです。
篠山さんには服なんか関係ないの。モデルの中身が露わになるようなことをしたがるんです。せっかく全身の服を揃えても写真がアップだったり(笑)。
平本 あはははは!(笑)
中山 それはスタイリストとしては、ねぇ(笑)。
表情を写そうとなさるわけだから……のちにだんだん納得してきましたけれど。