document

東京を巡る対談 月一更新

大山エンリコイサム(美術家)× 平本正宏 対談 そぎ落として現れる根源からの未来



<絵画のライブと音楽の即興>

平本 そうかもしれない。だから両者の即興を違うと捉えることはできるけど、実際は共通する部分もかなりあると思うんだよね。耳の疲れって、結構シリアスなことなんだよね。以前に対談した極地建築家の村上祐資さんが言っていたんだけど、宇宙船の中ってみんなお風呂に入れないからすごい匂いがきついらしいんだよね。だけど匂いってそれほど時間かからず慣れるんだって。

で、音に関してはいつまでたっても慣れるっていうことは無いらしくて、宇宙船の中の機械音とかノイズはずっと耳障りに感じて、それに対するストレスも時間が経てば経つほど募っていっちゃうらしい。だからその音を愛するような、好きになるようにしないとそこからの逃げ道は無いみたい。音と時間の問題って他のもの以上にシリアスだったりするんだよね。

大山 その宇宙船の話はすごく面白いね。ただその考え方だと、即興における音楽とライブペインティングは同質ってことになりそうだけど、むしろ両者の差異のほうにぼくは関心があるかな。レッシングという18世紀ドイツの詩人がいて、ジャンルの自律性の問題を提起しているんだけど、そこで絵画は絵画独自の、音楽は音楽独自の問題設定にだけ向き合うべきだという原理主義的なことを言っているんだよね。まあ原理主義的なところは置いておくにしても、ぼくはライブペインティングという表現形式に固有の問題ってなんだろうという点に興味を引かれる。

話を戻すと、音に対する耳の印象が時間軸上で堆積すると言っても、音楽の場合は少しずつその印象が塗り替えられていくという部分もあるんじゃないかな。耳のモードが切り替わっていくというような。ペインティングだとそうはならない。白で塗りつぶして画面をリセットすることはできるけど、物質としての塗料はすぐには乾かないから、白に戻したからといって即座にかき直せるわけではない。やっぱり音楽とはメディウムが異なるから、その差異が時間の進行におけるテンションの起伏の差異にどうしても反映されている気はする。

その「乾き」の問題をクリアするために、時間をかけてペインティングを何回もかき変えていく様子を撮影して、モーション・ライブペインティングの映像をつくる人も多いけど、そうするとまた音楽のほうに近づくのかもしれないね。その手のアプローチだとニューヨークのバーンストーマーズというアーティスト・コレクティブが有名だね。ただ映像ではなくて、その場でのライブを見せるとなると、やっぱり「乾き」とテンションの起伏の問題が残るんだよね。ぼくはそこにこそ、ライブペインティングが取り組むべきコンセプチュアルな課題があると思う。


The Barnstomers<Watching Paint Dry>、2000年

平本 物理的な制約があるのがライブで、それ以外の編集や時間の短縮ができるのがそれ以外の手段な訳だけど、そこはライブとは全く違う。結局は制作と一緒だよね。

音楽だけのメディアだけど、楽譜というのがある。クラシックなんかは曲によっては何百年前に作られた楽譜を元にして演奏するんだけど、たくさんの人が演奏して全部演奏が違う。当たり前かもしれないけど、楽譜は実際の音ではないから、弾く人によって変わるし、1人の演奏家でもなにかに気づくと演奏が大きく変わったりする。醒めたインタラクションというか。同じ演奏は2度とないし、方向性を変えるとその影響は大きいと思う。でも、常に大本となる楽譜は全く変わらない。

そういう側面で見ると、この楽譜を元にした演奏というのは音楽にしかないライブの表現だよね。即興とも違うし、完全な制作とも違う。

大山 楽譜ね。たとえば100パーセントとまではいかなくても、作曲家が指示した内容をなるべく忠実に再現していくのがよい演奏なのか、それとも演奏者のインスピレーションで好きに変奏してよいのかというのが古典的な問題だよね。ぼくは前者の発想だとCDプレーヤーの登場以降は演奏家はいらないということになると思っていて、他方で後者の発想だと、そこにはまさに即興の問題がある。ベイリー的に言えば、イディオム・インプロヴィゼーションということだよね。

平本 どう弾くかは演奏する人の自由だと思うけど、作曲家自身がこういう風に弾いて欲しい、もしくはこういうイメージを持って作ったということは少なからずあると思う。たとえば、ドビュッシーをロマン的に演奏したらそれは違うと思うし、イタリア歌曲はメロディの歌いを大切にしなくては変だと思う。答えがひとつなわけでは決してないけど、ここら辺が作曲家の狙いなんじゃないかというところはあると。

逆に現代音楽の中には、演奏に関する指示をなるべくしないで自由に演奏させることで、意図的に音楽の多様な変化を生み出そうとするものがある。そういうのも沢山あるけど、たとえばジョン・ケージの「プリペアードピアノのためのソナタとインタリュード」は奏法がかなり自由だから、色々な演奏家のCDを買って聴いてみるとそれぞれがけっこう違う。そこは作曲家自身の狙いなんだね。

大山 さっき平本くんがぼくにした質問で、いろいろなコラボレーションのなかでクイックターン・ストラクチャーというモチーフ自体が変わってしまうことはないのかというのがあったよね。逆に聞きたいのだけど、たとえば平本くんが作った曲が楽譜になって世に出たときに、誰かがまったく想像もしなかった演奏をして、その演奏を聴くことで平本くん自身、自分の曲への解釈が変わってしまうという可能性はあるのかな。

平本 どうなんだろうね。それは聴いてみたいね。その人の演奏次第ではこちらの気持ちも変わるかもしれないね。その可能性はあると思う。

1 2 3 4 5