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東京を巡る対談 月一更新

小高登志(神田まつや5代目)×平本正宏 対談 人と文化が行き交う交差点


小高登志(神田まつや5代目)×平本正宏 対談

収録日:2015年5月8日

収録地:喫茶ショパン

撮影:moco

<昭和のはじめは機械製麺>
平本 おそばを食べた最初の記憶は、小さい頃に母親がゆでてくれた乾麺でした。週末のお昼が多かったのですが、家族で食べるものと思っていました。大学生になったときに、父がはじめてそば屋で、お酒を飲みながらお蕎麦を食べるということを教えてくれたんです。そのそば屋が「神田まつや 吉祥寺店」だったんです。そのとき、お蕎麦ってこんなに美味しいんだと感動しまして、そしてまたお酒とすごく合うということも知りました。それ以来、月に2回くらい食べにいっています。

小高 ありがとうございます。吉祥寺のお店は今はまかせっぱなしなんですよ。古い連中が行ってるんですが、私は最近はほとんど行かないものですから。

平本 お新香や焼き海苔を食べながら日本酒をゆっくり飲んで、最後にもり蕎麦を食べるというのがとても好きでして、いつも本当に美味しく、このお蕎麦が生まれた経緯をいつか知りたいと思っていました。本日、こうして小高さんにお話を伺う機会を頂けたことが、とても有り難く、嬉しく、いま少し興奮しております(笑)。



小高 私どもはね、もともとは素人なんですよ。私の父方の祖父は酒屋が本業で、結構酒屋では成功したんです。母方の祖父は、今は茗荷谷の方にありますけど、昭和5年までは柳町にあった跡見学園の隣で医者をしていまして、亡くなる昭和18年まで跡見学園の校医もしていました。「まつや」というのは、福島さんという方が関東大震災まで40年間やってこられた蕎麦屋でして、関東大震災でお店が焼失したんですね。それで福島さんはお店をやめると言い出したんです。そこで私の祖父が勿体ないから自分が引き取って、当時早稲田大学に行ってた叔父にやらせるつもりで買ったんです。でも、叔父はやらず。結局戦争を境に私の父が押し付けられたような形になりましてね。私は兄弟が7人いましたから、学校を出たときに私がやらないと大変だなってことでやることになったんです。戦前は藪さんに勤められていた職人さんが入ってくれてやっていたんですけど、まあ今から見ると横町の蕎麦屋という感じでしたね。

平本 小高さんは慶応義塾大学を出られて、「神田まつや」を引き受けられたのですね。最初は機械を使って打たれていたそうですね。

小高 機械を使っていました。昭和に入ってから、機械が主流になっていまして、手打ちは東京では残っていませんでしたね。昭和の初めはあったかもしれませんが、昭和10年代は手打ちはほとんど残っていなかったと思います。

平本 蕎麦は手打ちが主流だと思っていましたが、昭和の蕎麦文化は機械製麺が基本だったのですね、知りませんでした。

小高 それで、どうせやるからには力を入れてやろうという気持ちになりましたから。まあ、若いから出来たと思うんですけど、蕎話会という手打ちそばを研究する会がありまして、上野の「蓮玉庵」さんの先代と、永坂の麻布十番の「堀井更科」さんとご親戚である錦町の更科の大旦那に先生になって頂きましてね。それで、薮さんの先代だとか、室町の「砂場」さんの先々代だとか、お年寄りが蕎麦屋のたしなみとして手打ちを覚えようということで、そこに私も入れてもらったんですよ。

平本 すごい方が先生をされ、皆さんでお蕎麦について勉強されたのですね。戦後の日本の蕎麦文化がここで始まったわけですね。

小高 そこで藪さんが手取り足取り教えて下さいました。その時、もし藪さんが、「うちに近いから、将来大変な店になられたら困る」とその会に入れてくれなかったら今の「まつや」は無いんですね。

平本 お店もとても近く、「神田まつや」さんも「藪蕎麦」さんも老舗ですので、そのような関係があったのは驚きました。

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