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東京を巡る対談 月一更新

小高登志(神田まつや5代目)×平本正宏 対談 人と文化が行き交う交差点


<一人で手打ちに切り替える>

小高 その会にいた蕎麦屋は10軒もなかったと思いますけど、結局皆さんの中で手打ちを始めたのは私だけでした。一人で手打ちに替えようと思った時、父も母も無理だと反対しましたね。でも、藪さんの近くで蕎麦屋としてやっていくにはこの道しかないなと思いました。

平本 藪さんは手打ちではなかったのですか?

小高 藪さんは手でもんで、機械で落とす。これはもう並木の藪さんも皆そうですね。それが手打ちを始めたきっかけなんです。若いから出来たけど、ずいぶんデタラメでしたね。いまはもう手が細くなってしまいましたけど、慶応義塾で柔道をやっていましたから力はあったんです。

私がやっているうちに弟も覚えてくれましたし、お店の子でいま独立している子も覚えてくれましたから人手はありました。それでも大変でした。今はもう当たり前のように皆打っていますけどね。だから、そば屋の世界では、今では何代も続いた老舗を脅かすような腕のいい人達がいっぱいいますね。柏の「竹やぶ」の阿部さんだとか、茨城の「慈久庵」の小川さんとか、ああいう人たちは凝りに凝っちゃうというところはあります。でも、そういう人じゃないと、本当の名人にはなれないんでしょうね。

平本 そういう人たちは「神田まつや」の味や、小高さんをはじめ手打ちを大切にされる方達から勉強して、自分たちの蕎麦を作られるようになったのですか?


小高 阿部さんの場合は池之端の藪さんに弟子入りなさって。今無くなっちゃいましたけど、練馬の豊玉にあった「田中屋」さんで覚えられたんですね。あの方、謙虚な方でうちに古くから残っていた番頭に手打ちを教わっているんですよ。頭がいいんでしょうね、あそこまで盛んになられた方でしたから。ただ、蕎麦は一杯いくらの商売で、食商人としても小さい小商人ですからね、いくらやってもそれは限度はあると思いますよ。うちは祖父が別荘を持っていましたが、その当時お蕎麦屋さんで別荘を持っているところは無かったらしいですからね、それくらい酒屋とそば屋では、営業の規模が違いましたね。

平本 一回に入ってくる売上が違うという事ですね?

小高 違うんだろうなと思いますよ。ただお蕎麦屋さんの場合には、家族でもできる商売ですから、欲をかかなければ自分たちが生活していく上では十分だと思いますね。うちは公私ともに無借金なんですけど、うちの若い人たちは30歳位になるとみんなローンを組んで家を買うんですよ。だから、「私は借金は無いけど、君たちの借金は僕自身の借金と全く同じなんだ」と言うんですけどね。そういう人達がローンを完済するまで、やっぱり責任を感じますね。ただこれから先24、5年払っていく人もまだいますから、私はそんなに生きていられないと思うんです。せがれが大変だと思いますね。

平本 そうなんですか。

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