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東京を巡る対談 月一更新

月船さらら(女優)× 平本正宏 対談 リズムを飛び越えた雑多な街、その或る姿

 

<根源的な基準としての「拍」をめぐって>

月船 私は、宝塚を辞めてから、100本は演劇を観ようと決心して観続けたんですが、そのうちに、わかりやすくて、すぐに消化できる演劇が好きではなくなりました。

 

    クラシック音楽でも、最初はメロディアスで、簡単にカタルシスが得られるような音楽ばかり聴いていたのに、あるとき、ロシアの作曲家のミャスコフスキーをオーケストラで聴いて、とてもメロディを覚えられないような音楽で、重くて暗い印象なのにどこか甘くて、・・・衝撃を受けました。それがどういう音楽かわからないのに自然と耳を傾けてしまう魅力があって・・・、むしろ、わかんないから聴いちゃうというか。

平本 僕が独学で作曲を始めたのが13歳のときで、大学に入るまでひとりで音楽を作っていたのですが、その間、作曲することに対してずっと違和感があったんです。で、19歳になり、舞踏を観に行く機会があった。そしたら、劇中に鳴っている音楽が、「ノイズ」だった。

    それまでの作曲が、全部「拍」で考えてしまっていたことに、そのとき初めて気づいたんです。「拍」で考えると、「拍」のあいだに無限の時間があることに思い至らない。その「拍」を取っ払ったときに、無限の時間が溢れ出ました。

    まったく聴いたことのなかった「ノイズ」に触れたとき、初めてにもかかわらず、ものすごく惹かれたんです。驚きの体験でした。

月船 宝塚のダンスでも、私の好きだった振付家は、「拍」以外の部分で、1秒間をどれだけ細かく感じるかを意識するようにさせてくれました。

平本 作曲においても、「拍」を設けたほうが簡単にはなるんですよね。一定の間隔での決めごとができるので。けれど大切なのは「拍」と「拍」のあいだで、そこを突き詰めると「拍」は脱落していく。

月船 そもそも「拍」ってなぜあるんですか。

平本 「拍」=リズムの重要性のためでしょうね。共同生活や共同作業のなかでも、リズムを共有することは作業効率を上げることに繋がりますし。原始からリズム曲はあって、それに合わせて歌や踊りがあり、そこに芝居が入り・・・というふうに、それは根源的なものなのだと思います。

    たとえば、秒針は時間を1秒で刻んでいますよね。この「秒」という基準は、境界線のない時間の流れに対する、ひとつの武器として機能しているのではないかと思います。一定の刻みを設定することによって共有できるリズムができるわけですから。「拍」もそういう意図を担っている。

    この流れがいつの間にか逆転して、「拍」を刻むこと自体が意味を持って、奥に潜んでいる無限の時間を感じられなくなっている音楽の置かれた状況が、僕が19歳のときに打開したいと思った壁なのかなと。

月船 音楽を「拍」に縛りつけていなければならないっていうだけだと、つまらないよね(笑)

平本 それはつまらないですよね(笑)

    けれど、「拍」を刻むことを覚えたからこそ崩すこともできるわけで、だから
ある種の現代音楽も派生してきたのだろうし・・・。

    そういえば、演劇は「拍」が存在しない感じがするけど、「拍」の感覚はあるんですか。

月船 コメディとか翻訳劇にはあるかなぁ。

平本 テンポが大事って言われますもんね。

月船 そうそう。翻訳劇ってすごく速く喋るのね、普通の1.5倍ぐらいのスピードで。そうしないと、劇がもともと持っていた味わいが出ないんです。だから役者も、感情の回転数を普段より上げる感じがあるかも。

平本 翻訳劇では、役者同士のあいだのテンポを気にしますか。

月船 しますね。

    翻訳劇か、日本の現代劇か、映像作品かで、自分の刻む速度を変えているような感じはあります、最初は意識的に、徐々に自動的に。そういう速度のモードのようなものがある。

平本 へぇ、すごく独特な感覚ですね、それは。

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