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東京を巡る対談 月一更新

小高登志(神田まつや5代目)×平本正宏 対談 人と文化が行き交う交差点



<お得意さんの意見を取り入れて>

平本 「まつや」さんで手打ちに切り替えられたのはもう50年ぐらい前になるんですね。

小高 全て手打ちにしたのは昭和37、8年ですね。50年くらいは経ちますよね。そんなに忙しくなるとは、その頃は思ってもいませんでしたから。昭和45年までは出前もやっていましたから大変でしたね。藪さんは昭和35年まで出前をやってられましたね。

平本 出前を止められたのはなぜですか?

小高 交通が激しくなったのと、人手不足の両方があったと思います。

平本 お蕎麦の味は、日々改良されているのですか?

小高 最初に藪さんが出汁の取り方を教えて下さいましたし、その勉強会に入っていた皆さんが教えて下さったんで、そのなかのいいとこを取って、自分の味を作っていったという感じですね。そういう点では、私は本当に運が良かったんだと思いますよ。今はウチのせがれにそういったことを教えてくれる人はいないですね。当時は毎日のようにうちへ来て、この汁はまだダメだとかこうだとか、いっぱい意見を言って下さる人がいらっしゃいましたから。

平本 それはお客さんが意見をされていたということでしょうか?

小高 そう、たとえば、ヒゲタしょうゆの販売員の方は、全国のおそば屋さんを知っているわけですよ。それで色々とアドバイスを言って下さった。あと、料理研究家の長谷川青峰先生が毎日のように来て下さってね、まだ辛いとか甘いとかおっしゃって下さいましたね。

平本 そういうお蕎麦の味を知っている方が色々教えて下さって、今の味を見つけられたんですね。

小高 そうですね。それからやっぱり食べ物は、材料が100だとどんなにしても120にはならないんですね。80のものも100にはならない。だから100を100に活かせれば、料理人としては一人前だと思うんですよね。材料を選ばないとダメでしたね。

平本 その材料というのも、50年前から細かく選定されはじめたのですか?

小高 そうですね。50年くらい前からですね。それに、ウチの親父は酒屋の二代目で、人に寛容でして、自分の好きにしろという感じの人でしたからね。それはありがたかったですね。

平本 お父様が「まつや」を任せてくださったのが大きかったのですね。

小高 そのうちに池波正太郎先生もいらして下さいましたからね。昭和43、4年のころだと思います。『錯乱』で直木賞を取られたあたりだと思いますね。

平本 池波正太郎さんはどなたかのご紹介ですか? 「まつや」さんのお蕎麦がお好きであったことはとても有名な話ですが。



小高 一番最初、編集者の方と一緒にいらしてね。私は池波正太郎というお名前知らなかったんです。そしたらうちの親父に、池波正太郎という作家が来ているから挨拶してこいって言われて。私が白衣を脱いで着替えましてね、それで初めて挨拶をしました。その頃、池波先生は目がぎょろっとして、恰幅もよくて、おっかない先生だなって思っていましたが、お話をすると非常にやさしくて、ほっとしたことを覚えています。あと、嵐山光三郎さんは池波先生に連れてこられたと仰っています。

平本 初対面でそんなエピソードがあったのですね(笑)。その後は池波正太郎さんが色々な方をご紹介されたのですか?

小高 昨日、古今亭志ん朝さんの記事のコピーを読んでいたんですけども、志ん朝さんも池波先生から「お前、まつやに行ってるか?」って言われて、つい「行ってます」って答えてしまい、早速その足で来て下さったということが書いてありました。

平本 池波先生に「行ってます」と答えられた手前、急いで「まつや」に来られたのですね(笑)。池波さんはよくいらしてたんですか?

小高 池波先生はね、山の上ホテルに画材を置いて、絵を描かれていたんです。それで歩いてよくいらっしゃいましたね。晩年はあそこから歩くのが、それなりに距離があって難しく、「松翁」っていうお蕎麦屋さんに行かれるようになったそうですが、そこをM蕎麦屋、M蕎麦屋って記事に書かれるんですよ。そうすると、お客さんは神田のまつやだと思っちゃうんです(笑)。だから、僕は「松翁」さんにすまないと思っていました。

平本 池波さんはカレー南蛮がお好きだったと文章で読んだことがあります。



小高 カレー南蛮もお好きでしたが、先生はどっちかというと、かしわ南蛮とか鴨南がお好きなんですね。池波先生は今年の5月3日が25年目の命日だったんですよ。その日にお墓の掃除に行ってきましたけど、池波先生のおかげですね。池波先生だけじゃなくて、荻昌弘先生だったりとか、薄井恭一先生という文藝春秋の社友がやっぱり引っ張り上げて下さいましたね。

平本 そういう方々が「まつや」さんの味をすごく好きになって、色々なところで書いたり、紹介して下さっていたんですね。

小高 池波先生や荻先生なんかはそうですよ。一生懸命やってるから何とかしてやろうよっていうところがあったんじゃないですかね。池波先生がお見えになってから、味は変わっていったと思いますね。

平本 そうですか。大変人情味のある方だったんですね。

小高 荻先生もそうですよ。頑張っているからなんとかしてやろうよ、とよくおっしゃって下さったそうです。「シェフからの一皿」、それから「味で勝負」をずっと連載をされていたんですけど、ウチのそばがきを取り上げて下さいましてね。それまでそばがきは1日に一つか二つしか出ていなかったんですけど、いきなり40個ぐらい出るようになりましたね。今でも毎日20個ぐらい出てるんじゃないですかね。

平本 僕も頂いた事があります! すごく美味しくて、お酒にも合いますね。池波さんや荻さんがいらした頃は、新しいことをやろうとか、もっとよくしていこうと頑張っていると、色々な方が何とかしてあげようと助けてくれる時代の流れもあったのですね。もちろん、厳しいご意見もあったと思いますが、そういったお話は音楽や芸術の分野でも聞いたことがあります。一緒にお仕事をさせて頂いている写真家の篠山紀信さんからも、そういう時代のエピソードを伺ったことがあります。

小高 「一億総グルメ時代の仕掛人たち」が朝日新聞から出されたとき、私も載せてもらいました。

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