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東京を巡る対談 月一更新

中園晋作(陶芸家)×平本正宏 対談 溶けて流れて生まれるもの



<他人に関わる面白さ>

中園 個性の話に戻るんですけど、結局突き詰めると、出てくるのは個々でしかないというか、それはすごく感じますね。無理矢理出そうとする必要は無いんだけれど、昔はその辺が分からなかったので、なんとか個性を出そうとしてうるさくなりすぎてしまっていた気がします。

平本 押さえようとか、出そうとかじゃなく、純粋に向き合うことかなと思うようになりました。でも、昨年からそう言った作業をしていて、じゃあいままで作った曲には個性が出ていないのかというと、決してそうではないんですよね。もう気づかずとも出てしまうものというか。それは、単純なここ数年の個性ではなく、それこそ最初にお話しした3歳くらいからの根深いものも大きい気がしています。

中園 器を作る時も、自分が思うように作っている時と、指定されたものを作る時があるんですけど、音楽も映画音楽等も周りの人の意見を聞きながら作る必要がある時と自分だけで追求していく時がありますよね。楽しさという意味ではそれぞれの感じ方は違いますか?

平本 全然変わらないですね。作曲家によっては、コマーシャルな音楽を作る時は、あくまで仕事であって、自分の作品ではないという人もいるんですけど、僕は全くないですね。それこそ2時間作って下さいと言われて作ったものでも、自分の作品だって胸張って言えるレベルまで持っていきますよ(笑)。それこそあれこれ考えて3週間もかけた作品と全く同じレベルに胸張ります。

本当に最近強くなって来た思いですが、電子音楽だろうが、依頼されたポップな音楽だろうが、絶対に聴いた人が楽しめるものにしようという気持ちがあるんです。そういう意味では独りよがりの探求では最近なくなってきたのかなって思います。



中園 そうですよね。そこに至るのって、二本立てでやってみて見えてくるのかもしれないですね。器に何かを置いて合う合わないとかいうのは、造形をやっていた頃は、そんなに大きい要素ではなかったし、正直買い手側に寄せているだけに見えていたところもあるんです。ある時から他のもの、人と関わる面白さを感じるようになりました。そこも含めて、大きいくくりで表現だと考えても良いんだなと。そこの余白を感じられるようになったんですよ。

例えば何かを作って出すときに、表現という意味では、100パーセントを目指すものだと思っていたのが、80パーセントでもいいんだなって思えるようになったんです。これは器、というものの特権なような気もしてますが、残り20パーセントを使う人に委ねても良いんだって。緑一色の器に赤いトマトを置けば2色だという単純なことに気が付かなかったんです。器を使う人が、その器を使うことを想像する面白さを感じながら作ってるんですよ。だから100パーセント自分で作っている感覚ではないかもしれません。勿論100パーセントのものも作りたいとは思っていますけど。

平本 それは面白い感覚ですね。自分が手を出せないところ、器を使う人が発想する使い方を楽しめるようになってきているわけですね。

中園 そうですね。面白さの一つかもしれないですね。

平本 似たようなことかもしれませんが、演奏家に自分の曲を演奏してもらうときに、なるべく演奏家自身の自由度が上がるようにお願いをしていくんですね。楽譜と、大まかな方向性だけを示したら、あとは「とにかく美しく仕上げて下さい」っていう注文だけするんです。そうすると、その人なりの美しいものを提示してくれて、大体の場合良いスタートを切れます。そこからもちろん作り上げる訳ですが、細かいことはほとんど言わずに完成まで持っていけます。手の出せないところを楽しむ感覚ですね。

中園 その辺りの目途というか計算が出来るようになるのはやっぱり技術ですかね。自分も偶然性とか、焼いてみないと分からない、みたいな感じは好きなのですが、ぎりぎりまでは、計算で持っていって、後はこの範囲での変化にまかせているぐらいの感じで仕上げられたらと思っています。

平本 だから、くじ引きみたいに仕上げてはいないということですよね。「もうどうなってもいいや!エイ!」ではなく、仕上がりを想定しつつ余白を楽しむみたいな。僕の場合も同じです。演奏家がどういう人かということも念頭に入れて想定して持っていく。だから、結果的に演奏のうまい人にしかお願いしなくなりますが。

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