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東京を巡る対談 月一更新

巻山春菜(畳職人)×平本正宏 対談 植物からものをつくる魅力


<2年間の修業の後、父の下で働く>

平本 ところで、巻山さんはお家で修行をするという選択肢は無かったのですか?

巻山 なかったです。両親からは女の子がなんでそんなことをやるんだと反対されましたから。

平本 畳職人や畳屋の歴史の中で、なんでここまで女性の畳職人がいないのかと仕事をする中で感じたことはありますか?

巻山 家では小さいミシンを使っていますが、大体の畳屋さんではもっと大きい機械を使っていて、今は女性でも出来きます。けれど昔は全部針と糸で手作業でやっていましたし、あと1枚の畳だけでも重いんですよね。重いものだと1枚40キロくらいあるんです。さらに昔は車も無く、リアカーに乗せながら坂道を上ったりしていたので、すごい力仕事でした。父も昔は横にリアカーを付けたバイクで運んでいたと言ってました。そういう意味では当然女性の仕事ではなかったです。今は機械化も進み、ボードの畳ができて、全ての畳が藁床ではないので軽いものも結構あります。マンションに入っている畳の多くはボードの畳ですし。

平本 純正の畳とは違うのですか?

巻山 そうですね。普通の畳よりだいぶ軽いです。畳自体が軽くなったということに加えて、車も機械もあり、今の畳仕事は昔必要だった力の半分から3分の1くらいまで抑えられています。

平本 確かにそれだけ力勝負だったりすると、昔だったら女性の仕事としては難しかったかもしれませんね。

巻山 父は私に対し、普通に就職してOLにでもなって安定してほしいという思いがあったでしょうし、女の人が出来るわけが無いと頭から思っていたと思います。

平本 巻山さん自身はそこは可能だと思われていた訳ですよね? 千葉の畳屋さんで修行しているうちに自分でも出来るという考えに至ったのですか?

巻山 そうですね。千葉には2年ちょっと通いました。でも今度は、その2年で修行先自体の仕事が少なくなってしまいました。お給料なしで交通費だけをもらっていたのですが、仕事が無いのに私が居る状況がだいぶ辛くなってきて。その頃、父も段々年を取り、畳を作ることは出来るのですが、重たい畳を担ぎ上げる時は他の人に手伝ってもらわなければならなくなってしまいましたので、千葉の修行は区切りをつけました。私が1回父の手伝いをした時に、意外と畳を担げることが父にも分かって(笑)。私も一通り畳は作れるようになっていたので、家でやりたいと父に話したら渋々許してくれました。

平本 2年の修業期間に色々と学ばれていただけでなく、畳を担げる体力や力も身につけていたんですね。実際に何かを作業するって頭で知ること、知識ばかりではないですよね。パッと体が動かせることだったり、気づくことができたりと、体で分かっていることが大きい気がします。そこも沢山学ばれたんでしょうね。

平本 結局学校には通われなかったんですか?



巻山
そうですね。学校に入れなかったからといって職人になれないわけじゃなかったし、父も学校には行っていないので問題ないかなと。その後、茨城にある畳の学校に女の子が入ったんですよ。私の時も茨城に学校があるのは知っていましたが、全寮制だったので、それに耐えられるか分からず、不安があったので訪ねませんでした(笑)。

平本 ははは。ぼくも大学のキャンパスが茨城の取手にあり、そこに通ってましたが、ほとんどの人が一人暮らしをしてましたね。周りに何も無く、授業をしていると、野うさぎが見えたりして。

巻山 えー、すごいのどか(笑)。

平本 そうなんですよ、のどかすぎるくらい。でも、そこで一人暮らしはどうしてもしたくなく(笑)、人が沢山いてごみごみしていないと落ち着かないので。結局1年生前期は通っていましたが、後期から学校にあまり行かなくなってしまいました。ちゃんと留年もせず卒業しましたが(笑)。

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