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東京を巡る対談 月一更新

村上祐資(極地建築研究者)× 平本正宏 対談 月より遠い南極〜薄曇りの極夜に音は潜んで

<「バイオスフィア2」との出会い>

村上 バイオスフィア2は、1990年代初めにアメリカで行われた、ガラスのドームのなかに、海や砂漠や熱帯雨林などの、地球にある自然環境を全部押しこんで、そこで男女8人が生活するという2年間続いたプロジェクトです(当初は100年間継続される予定だった)。食料も空気も水も、全て自己完結させた壮大な計画でした。途中で原因不明の酸素不足に陥って終わったのですが、その原因ものちに判明し、狭い生態系に実際に住む試みをすることで何が起こるかがわかった。


バイオスフィア2(撮影:村上祐資)

    大学時代にたまたま出入りしていた鹿島出版会で、何気なく「SD」のバック・ナンバーを手に取ったら、「ヒューマン・センター・デザイン」と背表紙に書かれた号に、そのプロジェクト・リーダー、ジョン・アレンのインタビュー記事が載ってて、読んで雷に打たれたような衝撃を受けました。

    大学2年生のその当時、僕は悶々と過ごしていて、なんでかというと、授業で設計の課題が出たときに、周りのみんなが有名建築家の写真集を参考にしているなかで、どうしても彼らの建築が、生活に直結しているようには思えなかった。良いとされている建築作品を写真で見ると、たしかに綺麗は綺麗なんです。でもそれは彫刻的な美しさというか、無機質な感じがして。けれど、建物で人が生活したら、ベランダには洗濯物が干され、部屋も汚れていきますよね。僕は団地のベランダに洗濯物がずらーっと並んでいる光景が好きなんです。生命力に溢れている感じがする。それがホントの建築のあるべき姿だと思ってたのに、そういう考えは周囲と馴染まなかった。

    あと、建築のありかたに関しても、疑問に思っていたことがあります。大学3年になると、研究室を選びます。たとえば意匠・デザインだとか、設備だとか、構造だとか。そうやって、配属先がどんどん細分化されていて、そこに入ってさらに研究テーマが細分化する。そもそも建築家って、様々な価値観、技術、人や材料を総合するから凄いんじゃないかと思っていた。なのに建築家を育てるはずの建築学科は反対のほうを向いていて、疑問を感じていたんです。そういうこともあり、バイオスフィア2は僕の理想と合致したんですね。

平本 一般に考えられている建築の概念を飛び越えた発想ですよね、バイオスフィア2は。

村上 ジョン・アレンの構想したダイヤグラムが非常に素晴らしかったのは、地球上のあらゆる環境要素を必要最小限に分解して、繋げて、いまの世の中の弊害と、人の目指すべき姿を説明していたからで、それがまさに僕の疑問を解決してくれた。


バイオスフィア2内の海(撮影:村上祐資)


バイオスフィア2内の気圧調整施設(撮影:村上祐資)

    バイオスフィア2は、最終的には火星とかその他の惑星とかで居住するハビタートを想定していて、建築における宇宙という概念を教えてくれた。これが、宇宙に興味を持つ契機になった。

    で、宇宙の建築をやろうと思って、卒業設計で月面基地を作ったんです。そのころ、月面とか海底のような敷地のわけわかんないところを前提にした設計はタブーとされていた。そこをゴリ押しでやりました。

    ちょうどコンピュータ・グラフィックが使われだしたころにあたるんですけど、NASAのホームページから写真を取ってきて、その写真の陰影から起伏を計算し、グラフィックを作って、地球と月の距離から、1年を通して地球がどう見えるのかを解析し、敷地模型もすっごいでかい2000分の1スケールのものを作りました。そのぐらい大きくしないと、月のスケール感が見えてこないんです。月に人が立ったときに見える水平線のラインって、地球にいるときと当然サイズが違ってきます。それを表現したくて模型は幅2メートルくらいになったかな、忘れましたけど(笑)。

    そして修士課程に進みました。その卒業制作の延長線上で研究を続けているうちに、今度は沸々と、生身としての自分が極地を経験していないことで、わからないことが増殖してくるんです。本を読んでるだけでは、皮膚感覚として極地を納得できないという思いが湧き出てきてしまって……。

    いまの大学院には博士課程からいるんですが、うちの研究室の前身は内田祥哉先生の研究室で、その内田先生は日本建築学会の南極基地の委員で、昭和基地の最初期の設計プロジェクトに関わった方なんです。実は、僕の指導教官の松村秀一先生が内田研究室出身で、昔、内田先生に南極へ行かないかと誘われて断ったこともあるらしく、なんとなく縁があるのかなぁと。

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