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東京を巡る対談 月一更新

村上祐資(極地建築研究者)× 平本正宏 対談 月より遠い南極〜薄曇りの極夜に音は潜んで

<取り出して見せられない極地の足音>

平本 アニメーション作家の新海誠さんが制作した「ほしのこえ」では、戦闘部隊の一員として、主人公のカノジョが宇宙に派遣され、地球上と宇宙の、光年単位の距離でメールの遣り取りをふたりでするんですが、それだけ離れているから、遣り取りがリアルタイムで行われなくなるという物語が描かれていました。ここまで村上さんのお話を聞いて、そのアニメを見たときの切ない感じが蘇ってきました。

村上
5年くらいまえから、南極とのあいだで、メールが自由に往復できるようになっています。衛星回線なので遅いんですけど。レーダーから衛星を経由し、山口県のアンテナを介し、東京の立川にある極地研へ。そこからやっと、自分の家族に繋がります。

    このように、メールは自由にできるにしても、時差もそうですが、情報量の問題があると思うんですね。文章だけのメールだと、情報量が少なくなってしまうジレンマがある。同じ国内に住んでいる者同士なら、仮にメールの遣り取りで誤解が生じたとしても、電話したり直接会うことでフォローができますよね。南極はそういうことができない場所です。昭和基地から遠征に出てたりすると、メールはすぐには返せないし。遠征は2週間から、最大で1か月に及びますから。

    こういう情報量の問題を考えたときに、平本さんの作っている音楽と、そのなかに含まれる音の情報量の関連が気になります。震災があって、世の中が騒然としているいまこそ、メールや言葉には収まりきらない量の情報を、恐らく音には乗せられるのではないでしょうか。

平本 音はいろんなものを含んでいます。言葉は、読むときの気持ちに左右され、平静な気分のときに読むか、悲しい気分のときに読むかで、同じ言葉でも印象が大きく変わる気がします。それに比して、音には素直な側面があって、情報を受け止めるキャパシティが大きいかもしれない。

村上 恥ずかしながら肺水腫になってしまい、途中で帰国せざるを得なくなりましたけれども、このまえ、平本さんに録音機をお借りして、ヒマラヤの音を録ってきました。そこで、自分の耳で直接聴く音と、機械を介して聴く音の違いを敏感に感じました。建築でもカクテルパーティ効果と言いますが。これは考えようによっては、機械では拾える音を人間の耳は拾えていないということ、つまり情報が部分的にカットされていることになるかもしれないですね。

    以前、僕のトークに来てもらった際に、極地の音はどうでしたか、と平本さんに質問されたことがありました。そのとき僕は、南極で最も音を意識したのは2か月続く極夜のときだったと、確かそう答えました。

    極夜期間というのは、想像しにくいと思いますが、ずーっと暗闇のなかにいるわけではありません。その期間に入りはじめのころは、昼間のあいだ薄ら暗い感じになります。太陽自体は出てこないけど、なんとなくボヤっとした灰色の明るさが辺りを領するんです、2時間くらい。それと、雲が多くなる。今日みたいな、どよんとした感じの時間帯がある。少なくとも、僕がそこにいたときは、そうでした。期待していたオーロラもあまり出ず、残念でした(笑)。


南極の氷山(撮影:村上祐資)

    その極夜の期間、普段気にしていなかった音が、どんどん耳に入ってくるようになったんです。雪の上を歩く音が実は毎日違うことが、そのとき初めてわかりました。

    それで話を戻すと、平本さんの「極地の音はどういうものか」という質問へのトークのときの答えに付け加えると、録音機で録ったような、絶対的な極地の音というものを僕は平本さんに呈示することができない、と言えます。僕が感じていた音は、あくまで僕だけが感じた音。極夜のような、他の要因に影響されていて、取り出して見せることができない。

    これは、極地における人と住まいの関係性と話が繋がってくるような気がして、興味深い。つまり、人が感じる音と機械を通して聴いた音の差異が、人間対建築の差異の構図と近似しているような感触があるというか。

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