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東京を巡る対談 月一更新

鳴川肇(建築家)×平本正宏 対談 遠隔地の風景と時間軸の作図法

<1920年代に確立したアメリカの建築>

鳴川 昔に比べて、いまの人間の行動力には、現行の世界地図が小さすぎるのではないかと思っています。グーグルマップは、ズームインして自分の家の屋根が見えることは凄いですが、ズームアウトした時に世界地図1枚半ほどにしかならないのはとても不便だと思うのです。

それに対するオーサグラフの強みは、自分の行動範囲を、時系列を含めて地球何個分もの広い範囲でフレーミングできること、でしょうか。

平本 音楽家や作曲家は、音楽の歴史を学ぶことが重要です。それは、人間の音楽への向き合いかたが、過去の歴史を遡っても変化していないという確信があるからなんですが。音楽を求めるマインドは人種や国が違ってもほとんど変わらない。だから、音楽の歴史を、レイヤーを変えて捉えることができないか、オーサグラフを見て感じました。

鳴川 アメリカが、建築で自分の立ち位置を確立したのは1920年代でした。1922年にシカゴ・トリビューン社のコンペがあり、260個ぐらい案が出たんですが、グロピウスなどのヨーロッパの建築家たちがほぼ全員落選した。なぜなら、当時は細長い現代建築をデザインするモチーフがなかったからなんです、ヨーロッパには。

でも、アメリカ国内では、1910年代半ばに超高層建築物の建設方法が確立されていた。また、デザインに関しても、ノウハウができていた。そのなかで、アメリカ独自の建築様式が生まれ、さらにシカゴとニューヨークで建築の競争があり、エンパイアステートビルの完成に至るまで続くんです。それと同じ時期に、ジャズがアメリカのアイデンティティとして確立されてきた、そう言えるんじゃないですか。

平本 ジャズがアメリカのアイデンティティとして確立していくには、実は少し時間がかかっています。そして、当然のことながら、ジャズ理論というのはもともと存在しないんです。

クラシカルな音楽とは関係のないところで黒人が作りあげたブルーズから発展していて、そこに本当に色々なものが寄り集まって今の形になってきた。

ジャズって、現在では複雑で、難しいマニアックな世界と思われている節もありますが、それだって第二次大戦前にヨーロッパに愛好家が出てきたことや、ヨーロッパから亡命してきた作曲家たちが自分の作品に取り入れたことが大きく影響している。

アメリカだけの問題ではないんです。黒人がアメリカのなかでどう扱われていたかということを含め、当時の建築の歴史なんかと結びつけて密に学んでいったら、また新たなジャズの歴史を見ることができるのではないかと思っています。

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