<今は暗黒の中世かも>
平本 そうですね。『ジャコモ・フォスカリ』の1巻を拝見して、マンガに出てくる人々がコミュニケーションという部分について、すこし冷たくというかドライに考えているんだなと感じました。接したくないものには目をつむるというか、見ないふりをするというか。
ヤマザキ 次の回ではそれがかなり出ていて、ジャコモがだんだん拒絶反応を示すようになってくるんですよ。それで、自分の好きな世界しか見たくないっていう風になっていっちゃうんだけど。そういうこともその時代なら反映しやすいかなと思ったり、自分でも書きたい時代だし。
平本 今の時代の話にしてしまうと、最初から他人との距離がある時代ですから、それはそういうものだで片付けられてしまいますからね。
ヤマザキ だから今の時代でここの部分を切り取ってみてみたいというのが無いんですよね。だから、エッセイマンガ以外は1個も今の時代を描いているものは無いんです。エッセイだって日本じゃないしね(笑)。一番最近で1985年とか、「PIL」っていうパンクやっていたときの話なんだけど。
平本 現代に対する魅力、描きたいとか創作の魅力も含めて感じなくなったのはいつくらいからですか?
ヤマザキ イタリアに行ってイタリアっていうビジョンが入り込んで来たときからかな。それ以外にもキューバとか色々な国に行って、見ているものが日本だけじゃなくなったんですよ。色んな国が色んな時間の流れの中で存在している。シリアなんか500年前と変わりない生活をしている人たちがいるわけで、そうすると日本だけが基準でものを見なくなっちゃいますから。
いまの時代がいけないと言っているわけじゃないですが、だた自分がとどめておきたい日本の姿はいまには無いなと。ただそうかと思うと、今の日本で自分の好きなものも沢山あるんですよ。この間頂いた『Tekna TOKYO Orchestra』のCDもそうだし、現代音楽しかり、草間彌生さんの作品にしてもそうだけど刺激をしてくれるものはある。でも相対的にもみても少ない気がする。
だからそういうニッチな中で、それこそ作家達が集う「猫目」とか都築響一さんの「アーバン」とかに行かないと居心地がっていう風になっていっちゃう。どこでもいいわけじゃなくてね。
平本 僕のファーストアルバム『TOKYO nude』は、東京っていう都市があまりにも変化し続けて形をとどめないので、そこに着目して作ったんです。東京の色々なところ、全部で100カ所以上を回って音を収録してそこから加工して作った。まあ、リゲティの影響を詰め込んだ最後の作品だと自分では思っているんですが。
そのときに東京の音を収録してみようと思ったきっかけは、たとえば六本木の交差点で音を収録したら1カ月後とか半年後になると、また街自体に何かしらの変化が起きて、もうこの音は聞けないんだろうなと思ったのがきっかけなんです。街が変わるって規模も大きいんで、もとに戻る可能性ってゼロじゃないですか。そうすると音のアーカイブとしては結構貴重かなと思って。
ヤマザキ そういうのって無くなるよね。言葉になっちゃうけど、ツイッターでも“(笑)”ってまだ大丈夫だろうかとか、“なう”ってもう使わないなとか、いつ何が死語になっているかわからないでしょ(笑)。変化が早すぎてついていけない。ちなみに“w”はフンって感じがして好きじゃなくて(笑)、そういうネット部分とか音楽とか凄まじい変化をしているよね。
平本 ただ、音楽には革新的なことが起きない印象がありますね。流行りのサウンドの変化はめまぐるしいですが、それが全部アッと驚くようなマネしたくなるようなものかっていうと全然そうじゃない。「あ、次はこれ来たか」みたいな感想しかなかったり。
電子音楽でいえば10年くらい前に、結構大きなブームがあって、そこではいくつかの音にみんなが飛びついてマネしたりしていたんですよね。でも、最近はそういうことは無いですね。これからまたすごい音が出てくるのかもしれないし、しばらくこういう状態が続くのかもしれない。
ヤマザキ 暗黒の中世時代かもしれないよ。でも、中世時代が無いとルネサンス無いからね。
平本 だからまたそういうときがくるんだろうなと思います。
ヤマザキ で、それは自分たちが生きているときに起きて欲しいよね。
平本 起きて欲しいし、そのときは自分がその中心にいたいですよね、60年代好きとしては。
ヤマザキ いたい! だから『ジャコモ・フォスカリ』書いたわけで。会う人みんなに配っているという(笑)。
こういう時代になびく人って私だけじゃないと思うの。風呂マンガだって、私しか面白くないと思っていたのに、みんな見てくれて。でも、『テルマエ・ロマエ』はね、若干売れ過ぎた。売れ過ぎて私が思っている読み方をされない部分も出て来て、「ああ、行ってしまいましたね」と思った。
私たちがお風呂に入るスリッパにヒラヒラをつけたりとか、そういうのって古代ローマ人くらいしか理解してくれないと思うんです。あまりにもものがあり過ぎて、そういう状態じゃないと生まれてこない産物ってあると思うんです。そのおかしさを客観的に文化比較論として書きたかったんです。2000年前の古代ローマっていまと寸分違わぬ文明で、だからタイムスリップから戻って来たルシウスは手に入れた現代日本の品を古代ローマの技術で再現できちゃう。その時代、私たちは縄文とか弥生人ですよ。竪穴式住居に暮らして、卑弥呼とか勾玉とかやっているときに、むこうは哲学者までいてあと少しで産業革命も起きるような蒸気機関のおもちゃとか作っているんですよ。
平本 確かにルシウスは現代日本で得た知識を、職人を集めて実に近いところまで再現できてしまう。それは、それは単なる知恵やひらめきだけでない、生産の能力や高い技術の存在をうかがわせますよね。
ヤマザキ 結局、企業化する力があるんですよ。ものを商品にして売り出す力があるわけじゃないですか。だからその辺のすごさをマンガに書きたかったんです。
あと、お風呂だって、なぜ古代ローマ時代にあれだけ進化したお風呂があったのか。実は誰かタイムスリップして、日本の風呂を見ていたんじゃないか、それを訴えたかったというのがあるんですね。だけど、そういうところに気づいてくれる人がどれくらいいたか。
だから、『ジャコモ・フォスカリ』もどういう反応、どういう読まれ方をするのかわからないけど、出してみたら思った以上に反応があって。
平本 『ジャコモ・フォスカリ』がマリさんの好きなところを詰め込んだものなら、ここからどう展開していくのか何が出てくるのか、気になるところですよね。
ヤマザキ 時代描写として私は見ていないけど、自分の立場としてドナルド・キーンさん的な立場でジャコモの世界に入り込んで、私の知っている限りで偶像化できる安部公房だったり三島がいるっていうね。それを書く楽しみもあるけど、それ以外に自分の想像性、例えば兄妹の近親相姦だったり、これはトーマス・マンが入っちゃっているけど、例えば『ヴェニスに死す』だったり、私の潜在意識下にあるそういう要素が露出して行くのだと思う。
でも、やっぱり描いてても面白いです(笑)。私が読んでみたい本ですって宣言した手前もあり(笑)。