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東京を巡る対談 月一更新

上田岳弘(作家)×平本正宏 対談 喜びと悲しみの表現面積



<5歳ぐらいから本を書く人になりたいと>

上田 なんで小説を書くのかということなんですけど、何かが起こるかもしれない場がここにあって、何か起こるかもしれないと期待して注目している方が、日本でも少なくとも何千人かいらっしゃって、そこに何かをポンと差し出せるメディアがあるというのは、実はすごく稀だと思うんです。だから、そこに何か差し出してみたかった。今回このような機会をもらえたことは本当に、僕にとっては執筆活動をがんばった成果なんです。

平本 なるほど、自分が投げ出したことがメディアとなって。

上田 多分そういう何かが起こるかもしれないという期待がなかったら、僕と平本さんが出会うこともなかっただろうし。その前に文芸誌に載せてもらえたこともありがたかったですし。

平本 編集者がいらっしゃる前ではありますけど、僕にとってはとてもいいメディアでした(笑)。

今まで小説を何作も書かれてきたと思いますけど、第1作を書かれたのはいつ頃ですか?

上田 21か22の時でしたね。その頃に書き終わった作品です。

平本 それは早稲田大学の学生の頃に?

上田 そうですね。400枚以上ありましたね。それは多い方だと思います。『太陽』は200枚位なんですよ。量は倍あって、内容はメタメタでした。

平本 それは完成してどうされたんですか?

上田 完成してお蔵入りというか。

平本 応募とかはされなかったんですか?

上田 規定が大体300枚くらいなんですよ。

平本 へーなるほど。じゃあ長編というのは応募できないんですか?

上田 応募は基本的には短編がメインです。400枚以上ありますし、内容的にメタメタだなって自分でも分かるわけですよ。色々足りてなかったですね。

平本 ちなみにどういう作品だったんですか。

上田 えーと、どんな話だっけなぁ。一言では表現しづらいんですけど、んー、難しいですね(笑)。本当に日々のフラストレーションを書いた感じなので。

平本 そこから『太陽』までどれくらいの作品を書かれたんですか。

上田 多分10作とかそれぐらいですかね。21か22ぐらいの時に書き終わって、そこから1年ほどは、手当たり次第に本を読むようにして。そこで筋肉を付けていった感じですね。

平本 じゃあ最初の作品は初期衝動的に書かれたと?

上田 そうですね、とりあえず書いてみようと。

平本 そのとりあえずという感覚が面白いですね。いきなり小説を書こうと思ったのはどうしてでしょうか?



上田 それが不思議なんですけど、5歳の頃には本を書く人になりたいって思っていたんです。多分作家のことなんでしょうね、まだ文字も知らない状況ですから。幼稚園の卒園のアルバムには将来なりたいものとして、本屋さんになりたいと書いていました。本を書く人になりたかったのですが、ちょっと照れて本屋さんになりたいって。そういう物証もあるくらいなんですが、何でそう思ったかはよく分からない。

あと兄弟が多くて、上に3人いるんですけど、彼らはよく本を読んでいたので、それを見ているうちにそう思ったのかもしれません。ただ、その本を書きたいという気持ちも疑わしいので、高校の時は理系に行ってみたり、大学は法学部に行ってみたり、社会に出てからはベンチャー企業の立ち上げに関わってみたりと、色々やってみまして、それで去年作家になるということが現実になったんです。

平本 じゃあ衝動がありつつも、その衝動が本物かどうか疑ってもいたと。

上田 つむじ曲がりなんですよね。多分皆が夢中になって読んでいるのを見て、逆に本を書く人になりたいとなったんだと思うんですが。それでとりあえず400枚のを書いたんですけど、やっぱりメタメタなわけですよ(笑)。それにもともと、日本に住んでいる以上は日本の社会に出て色々刺激を受けてみたいっていう気持ちもありました。せっかくですからね、寄り道かもしれないですけど、そっちもやってみたいなと。作家になると、作家じゃない状態にはもう戻れないので。必ずしもデビューがすべてという立場を取っているわけではないんですが。

それでまあ、色々やってみて、そろそろ書かないとなって思ったのが、31の時かな?それで2年前に第43回新潮新人賞に応募したら最終候補に残してもらえて。それがリスタートになりました。

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