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東京を巡る対談 月一更新

上田岳弘(作家)×平本正宏 対談 喜びと悲しみの表現面積



<悲劇、喜劇、両方ある方がいい>

上田 ゴールデンウィークに「ラ フォル ジュルネ」っていうイベントで大手町、有楽町周辺でクラシックのコンサートをいっぱいやっているんですけど、それに毎年行ってるんですよ。そこで音楽とは芸術である前に喜びであるって演奏者の方がおっしゃってる映像が流れてて。考えてみれば、じゃあ文学は芸術の前に思考であったり、苦しみとか悩みであったりするんじゃないかなと思ったんですが、先程のネガティブ思考の話を聞いたときもそうなんですけど、極力ポジティブに考えていきたいって志向は小説家としては異端なのかなって、最近疑問に思うんですよ。苦しまなきゃいけないとか。どうなんですかね。

平本 そうですね、どうなんですかね。その苦悩云々っていうのは僕も言われたことあります、「君は暗い過去とか人にはない悩みとか苦しみがないだろうからダメだ」って。そういうの無さそうに見えるみたいですが(笑)、僕は苦しまなきゃいけないとしている人はちょっと古い人なんじゃないかって思います。表にそういうのが見えてしまっているのはなんか大したことないというか、本人がそれを売りにできる程度と言うか。自分は怖いって言っている人ほど、怒っても怖くなく、絶対に怒んなそうな人が怒る方が怖いという話に少し似ている気がします。

上田 そういう人が怒ったら最後ですよね。

平本 それはもうものすごいと思います(笑)。だからそういう意味で、露出するものって裏っ返しが無いというか、表出している程度の苦しさで終わりになるんだと思います。逆にそういうものを表に出さない人が表にふっと出すものの方が苦しさの一言では表せないものがある気がして。

上田 単純に悲劇、喜劇というのがありますけど、片方だけしかないのはどうなんでしょうね。どうせなら両方ある方が良いのかなって思います。

平本 それは思いますね。なぜか悲しいメロディの音楽が得意なんですよ。いつだったか理化学研究所で脳科学を研究している人たちが発表していましたけど、悲しい音楽を人が聴くと、精神的には心地よいというか安らぎになるらしいんですね。浄化作用という感じでしょうか、悲しい=相手を悲しませる、という単純なものではなくて。だから、自分の音楽もそういう両面を兼ね備えたものにしたいと思うんです。その悲しさの向こうにある美しさを気づかせてくれる音楽が出来たら面白いと思っています。

上田 さっき音楽は芸術たる前に喜びであるって言ったじゃないですか。確かにそうなんですけど、聴覚刺激っていうのを突き詰めると、喜びであったとして、そこから悲しみへ向けた方が表現面積が大きいんじゃないですか。表現の総体としては、そっちの方が大きいのかなと思います。

平本 そうですね。まさにその通りじゃないかなと思います。

上田 小説の場合だと、苦しみとか思考が、喜びの方へガーって抜けていけば、すごい表現面積が大きいんじゃないかなと最近ちょっと思ってるんですけどね。

平本 ではそういうことに少し興味があるんですね?

上田 そうですね。単に悲劇ではなくて、両面を。



平本 それはありますね。曲を作っている時に、その作曲がうまくいっている場合は自分の中でのドライブ感というのを強く感じるんです。悲しい曲、明るい曲、もしくはそれらとは関係のない現代音楽、電子音楽、音楽の内容は全く関係なく、うまくいっていればその高揚感は感じます。作曲に興奮している自分と、それを落ち着かせようと抑制する自分の2人が働くと感じで、うまくいっているときにしか感じません。

そういう似たような状況は、執筆している中であったりしますか?

上田 小説の中に人格が何個か出てくるとするじゃないですか。今回の『太陽』では、ドンゴ・ディオンムっていう人格もあれば、トマス・フランクリンという人格もある。それぞれの人格に憑依しながら書いていて、皆で引っ張り合いながら先に進めています。ま、出来てるかどうかは分からないですが(笑)。でも、少なくとも2人の人が引っ張り合っている。次回作に関してはもう少しシンプルにやりたいと考えてますけどね。

平本 その憑依というのはどういう感じなんですか?

上田 僕の場合は、自分の中の一つの局面が人物になっている感じがあります。自分の中にあるものを依り代にして人物を呼び出すというか。

平本 そうなんですね。そのなかでも人種や性別、『太陽』では世代も超えていくわけじゃないですか。そういう時はどうされたんですか?

上田 そうですね、必要だから出てきている感じです。まずは表現したいぼんやりとした塊のようなものがあって、それまでの流れがあって、誰か出てくる人がいる。そこで初めて人物が召喚、というか出てくるんですけど、それがどういう人であるのかというのは、その時になってみないと分からない。

平本 さっき撮影のときもこの話はしましたが、話に登場する人物が直前まで全く出来ていないで、その瞬間になってはじめて出てくるそうですが。

上田 出てくるまででは名前は決まってないし、男であるのか女であるのかという属性、いつの人なのか、現代の人なのかも、何も決まっていません。完全に決まってなくて、誰か出て来なければまずいという状況になった時にはじめてそこに出てくる。それがどういう人なのかコントロールが効かない。勝手に人物が動き出すというよりは、もはや人物の出だしの段階からコントロール効かないっていう感じですね。

平本 それは面白いですね。その人物をコントロールしようとはしないんですか?

上田 しないですね。その方が楽しいです。コントロールするとまずいというのもあります。作曲している時はどうですか?

平本 作曲に置き換えるとどういう感じでしょうかね。

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