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東京を巡る対談 月一更新

苅部直(政治学者)×平本正宏 対談 80年代の自由が背中を押してくれて


<たまたまの政治思想史>

平本 さきほど研究者生活が27年とおっしゃっていましたが、その一番最初、大学院に進学する際に日本政治思想史を研究しようと決断された理由はなんだったのですか?

苅部 大学に入る時は、研究者になろうという志望は特になくて、文学部に進んで出版社とか新聞社にいければ御の字かなと思っていました。ただ父親が先に話したような経歴ですし、高校の先輩で大学院に行っている人を知ってもいましたから、一般論としてそういう道もあるということは意識にありましたね。もともとは日本のこと、歴史でも構わなかったし、文学でも良いし、思想でも良かったんだけれど、近現代の勉強を大学ではしたいと思って入ったんです。ところが、1、2年生のときにゼミでお世話になった先生が二人、口をそろえて文学部の悪口を言うんですね。お二人とも文学部の出身なのですが、あんなところは人間関係が閉鎖的で息苦しいから行かない方がいいと(笑)。これは後になって嘘だとわかったのですが、しかしこちらはまだ実情を知らないから、どうしようと思っているうちに、法学部には、日本政治思想史や日本政治外交史があると教えてくれた先輩がいたんですね。しかもそれは主に近代の事をやるようになっているから都合がいい。それで3年から法学部に進んだという経緯がありましたから、研究者になるとはっきり決めたわけではないにせよ、関心の焦点をもって勉強していたところはありましたね、いまにして思えば。

平本 じゃあもう、大学に入学したときから決められていた訳ではなく、大学での経験から選ばれた訳ですね。

僕は電子音楽やコンピューター音楽始めたのが大学入ってからなんです。それまでは漠然と映画音楽の作曲家になりたいと思っていましたが、大学入って本格的に聴き出したら面白くて面白くて。結局、大学院の2年生になるまでほとんどメロディの曲は書きませんでした。たぶん書いたのは2、3曲くらいだと思います。あとは全部電子音楽。こちらはかなりの曲数を書いたはずです。いつもコンピューターとにらめっこして、ノイズや電子音を鳴らして組み合わせる日々を過ごしていました。本当に一途に、一生これしかやらないと決め込んでいるところがありましたし。それだけじゃ、全然食ってはいけないのですが、絶対に大丈夫と妙な自信があったんですね。

苅部 あと、僕が研究し始めた頃は景気がよかったんですね。卒業した年は1988年で、バブル経済の真っ盛りでした。普通の東大生なら、リクルートから企業案内の資料がどんどん送りつけられてきて、積んでゆくと天井まで達したという時代です。しかし僕の場合は文学部に進む予定だったのが、法学部に転じたせいで行方不明者と思われたようで、一切送ってこなかった(笑)。だから就職の誘いもないし、とりあえず大学院の試験を受けて、落ちたらまた来年考えればいいと考えたんです。あとその頃は、景気がよくて受験生も多かったので、予備校が盛んな時代だった。だから、もし大学院に進んでその先は大学に就職できなかったとしても、予備校講師でやっていけると思っていました。実際に大学院時代にそのアルバイトで稼いでいましたからね。

平本 じゃあ今の大学生みたいに、これが駄目だったらどうしよう、という崖っぷち感は無かったんですね。なんとも羨ましいです。僕はその当時、自信の割には貧乏を気にしていましたから(笑)。

苅部 親が大学院に行っていたので、4年で卒業したら必ず就職しなさいと言われることはなかったし、大学院に行っても食うのは難しいとわかっていた。家族もあまり関心がなかったのかもしれませんね(笑)。それで、あまり真剣に考えずにすみました。ですから自分も研究者としてやっていこうと実感をもって思えたのは、修士論文を書いてからなんですよ。それまでは自分がどのくらいのレベルか、まったくわかりませんから。

しかしその論文が、あまり大したものではないんですけど、それなりに形にはなっていたので、これならやっていけるかなと。

平本 修士を取った頃に見通しは立ったということですね。

苅部 そうですね。

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