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東京を巡る対談 月一更新

苅部直(政治学者)×平本正宏 対談 80年代の自由が背中を押してくれて




<手書きとワープロの違い>

平本 執筆活動や研究されているのは研究室ですよね。研究室はどういった環境なのでしょうか?

苅部 机があって、パソコンがあって、本が積み上がっててという感じですね。机にむかって読んだり、書いたり。

平本 手で書く事もあるんですか?

苅部 だいたいはパソコンですが、2、3枚の短い原稿であれば、手書きで下書きをしてパソコンで清書する場合もあります。手書きの方が、書き直しがしにくいという意識が働いて、一発勝負のような勢いが文章に生まれますね。それで思い出しましたが、『方舟さくら丸』に僕がいま一つ乗れなかったのは、安部公房がワープロを使い始めたせいもあるだろうと思っています。ワープロだと何度も何度も書き直せますから、推敲をやりすぎたのではないかと。文章に、リズムの狂ったようなところがなくなって、平板な印象のものになってしまう。

平本 なるほど! それは苅部さんご自身が執筆される中でも感じられますか?

苅部 感じますね。

平本 はー、でも『安部公房の都市』の中で、安部公房が元々推敲に推敲を重ねる人だったというフレーズが結構出てきますよね。それは、『他人の顔』の頃から習慣としてあったわけですが。

苅部 その場合は、もう1回原稿用紙に書くんですよね。それは推敲といってもワープロの時とは違うような気がします。

平本 なるほど、ワープロの時は直したいところだけ直せばいいわけですもんね。

苅部 場合によっては話の順番を入れ替えることまでできる。原稿用紙だと、そこまで乱暴なことはなかなかしにくいでしょう。

平本 書く中でのリズムもありますしね。

苅部 その時の呼吸みたいなものね。それが晩年の作品では消えている気がする。

平本 なるほど、なるほど。コンピューターの中での作業は作曲もそうなので、その感覚はわかります。コンピューターで何度もこねくり回して複雑に作り込んだ音楽がどれほど魅力かというと、それほど魅力でない場合が結構あります。

作曲をしていて、1曲にかける時間として5日をデッドラインと決めているんですが、それは経験からそれ以上コンピューター内でこねくり回すといいものにはならないと感じたからなんです。ビシッとある一定の時間で自分が納得するところに落とし込まないと、いつまでたっても変更、編集できてしまいますから。最後はこねくり回し過ぎて、何が良かったのか分からなくなったり。

安部公房は無機質とか言われるけれども、ある一部分を抜粋すると、言葉の並びがとても美しいと書かれていましたが。

苅部 そういう文章の熱気が、ワープロを導入したあとの作品には感じられないんですよね。

平本 『安部公房の都市』の中で苅部さんが書かれたそのフレーズを見た時に、「安部公房の文はこんなに綺麗だったのか」と目を疑ってしまったのは、自分が安部公房の文体として抱いていたイメージが『密会』や『カンガルー・ノート』等の後期作品から来ているからなんですね。で、それは、ワープロ時代の作品なんですね。

苅部 遺作の『飛ぶ男』は相対的にいいんですよ。推敲が未完成だから(笑)。すでに『笑う月』にも登場する、以前から温めていた構想だったせいもあるんでしょうけどね。

平本 それは読んだ感触としてわかります。なんというか、『カンガルーノート』という作品を経ていながら、『壁』に戻ったような印象がありました。もちろん未完だから当然なのですが、文章や構造の無骨さと隙間が、物語の不条理さ、不安定さを増長していて。安部公房の世界に導かれ迷い込むことを喜んでしまうような感覚を覚えました。

最後の方になりましたが、苅部さんがこれからしたいことをお聞きできればと思います。

苅部 もう研究者としての活動はほとんど引退期だと思うんですよ(笑)。ふつうの政治思想史研究者が60歳までに書く量は、あくまでも質でなく量のことですが、書いてしまいましたから、もういいかなと。いま抱えている短期計画は、1冊書き下ろしで19世紀から幕末にかけての思想史をもう1回見直すという仕事ですが、それが終わったらあとに何をやるかという計画はありません。これまでもそうなんですけど、次に何をやるかということはあまり考えないんですね。

もちろん、自分のメインの仕事は大学で教えることですから、それをいずれ、本にまとめることはやるかもしれません。それ以外に計画は特にないですね。細かい仕事では、ほかの方々との共同研究で論文を書かなくてはいけないということもありますが、これは内的な関心の産物というより、義理の世界に近いです(笑)。

平本 やらざるを得ないわけですね(笑)。今までやってらっしゃった中で、自分の中で大きかったお仕事はありますか?

苅部 しいて言えば、新しい仕事は常にそうなんですよね。そういう意味では、いつもラストワークが一番重要です。

平本 じゃあそれを常に更新しているという事ですね。それはやっぱり作曲に似ていますね。

苅部 あと、なるべく前にやった事は忘れたいんです(笑)。リセットして次の事に。思想史の研究者には、もちろん一つのテーマをずっと追究するタイプの人もいて、それはそれでありだと思うんです。でも自分はそういうタイプではない。

平本 そのときの流れの中で出てきたものと向き合うということですね。

お時間もそろそろなので。本日はありがとうございました!

苅部 ありがとうございました。

 


苅部 直 Tadashi Karube

政治学者(日本政治思想史)。1965年、東京生まれ。東京大学法学部教授。
徳川時代から昭和戦後に至る時期の思想史について、『光の領国 和辻哲郎』(岩波現代文庫)、
『丸山眞男ーーリベラリストの肖像』(岩波新書)、『秩序の夢ーー政治思想論集』(筑摩書房)といった仕事を刊行している。書評・時論集 として『鏡のなかの薄明』(幻戯書房)、文芸評論として『安部公房の都市』(講談社)もある。

撮影:西岡潔 http://www.nishioka-kiyoshi.com

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