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東京を巡る対談 月一更新

小㞍健太(ダンサー/振付家)× 平本正宏 対談 研ぎ澄まされた経験的感覚—探り、踊る



<ダンサーとしての振付家>

平本 「トキ」もそうだけど、今年は2月にNoism2への振付もしているよね。振付家としての自分と、ダンサーとしての自分はどう分けて考えていますか。

小㞍 振付よりも、やっぱり踊りたいんだなぁってNoism2を振り付けている時に思った。ダンサーの立場からすごく考えていたし、自分で動きながら考えましたから。身体的な制限が出てきて動けなくなるまではダンサーでありたい。ダンサーとして「こういう動きができるけれど、こういう動きもしたい」ということの延長線上に振付があるように思う。演出だけ外側からすることには、まだ興味が湧きません。自分ならこのコンセプトで、こういう振付・演出で踊りたいと思って作った感じでした。

平本 作曲家でプレーヤーじゃない人ってけっこういるんですが、振付家の場合はルーツをたどるとほぼダンサー、つまりプレーヤーなわけです。これは音楽とダンスで大きく違う点。ダンサーが振付家に転換することについてはどう考えていますか。

小㞍 ダンサーを完全にやめて振付家に転換することは、客観的に振付と演出を見られると思うし、踊り手ではない方向からアプローチできるかもしれない。でも、いいダンサーがいい振付をするとは限らないから難しいですね。振付もダンスも両方やる人で、本質的に転換してる人は少ないんじゃないかな。

僕もそうだけど、そういう人にはずるさがあって、いろんな振付家とクリエーションした経験のあるダンサーだから、振付の部分がおろそかだったとしても、それがさもよくできていたように上手く踊ることができてしまう。自分のダンスで引きたたせてしまう。もちろんそれはアリだけれど。

平本 なるほど、自分の身体を抜いて、振付だけになったときにはじめて作品の真価が試されるわけですね。

小㞍 自分以外の人に振付をしてわかることはすごく多い。ダンサーに自分が何をしたいのか伝えられなかったら、お客さんにも伝わるわけないしね。言葉では表せられないイメージをダンサーに伝えて、どう動いてもらうか。そこが振付家に問われること。

人に何かを伝えるのは手間も時間もかかることだから、自分で踊ってしまったほうが早いし、楽といえば楽。けれど、その壁を越えて振付をすることは将来的にはしなくてはならないことだとも思います。

平本 それはやっぱり身体的な感覚の衰えを感じる日が来るから?

小㞍 そういうわけではなくて、舞台芸術は1人ではできないもので、振付も演出も自分の思想だけではなく、コミュニケーションが必要不可欠なものだと感じているからかな。

この間初めて自作自演ソロをやったとき、1人でリハーサルして、自分の動きのキャパシティーの少なさに愕然となり、自己嫌悪に陥ったりもしたけど、最終的にいい作品に仕上がったと思うし、いい経験になりました。今までの経験があったからできたんだと思う。

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