document

東京を巡る対談 月一更新

ヲノサトル(音楽家)× 平本正宏 対談 コミュニケーション好きの音楽

<サンプリングの時代>

平本 そのコンテンポラリー・ダンスはどういうものだったんですか? 僕もコンテンポラリー・ダンスの音楽が最初の仕事だったので、なんか気になります。

ヲノ 池田君と、あと木並和彦くんというピアニスト。何で知り合ったかは覚えていないけど、その頃池田君は青山のmixってところでDJやっていて、彼はその頃はレコードとかターンテーブルとかテープとか使ってコラージュ的なことをやっていたんだよね、全然サイン波じゃなくて。僕もサンプリング的な発想が好きだったから。ちなみに僕の修士論文は「ケージとルイジ・ルッソロとサティを環境音楽として読み解く」みたいな内容なんだよね、今だと顔が赤くなるような内容だけどね(笑)。

転機になったのは、「贋札計画」っていうコンサートをやったんですよ。

平本 おおー、赤瀬川原平みたいですね。

ヲノ 実は踏襲しているんだけど、「贋札」っていうのはサンプリングのことなんだよね。それを下北沢にできたばかりの北沢タウンホールでやって、そうしたら椹木野衣さんが来てくれて、有馬純寿くんも来てくれて、で終演後「これは面白い!」って熱くなってくれて。特に有馬君とは次の日に会って話そうって事になって、昼間からお酒を飲みながら話したんだよね。そこから有馬君とはずっと仲のいい友達で、今は『アルテス』っていう音楽誌で毎号対談もしているし。そこに前林明次さんっていうサウンド・アーティストが入って、3人でレクリプっていうユニットを作ったんですよ。そのユニットは、ポータブルであるという事が画期的だった当時のMacintoshで音楽をやろうというユニットで。三人で「M」を走らせてライブをやっていた。それが20代後半。

ちょうどその頃、友人の紹介で明和電機と知り合ったんですよ。その頃明和電機は筑波大での美術ユニットとして、アートに目を向けたソニーの第2回のオーディションに勝ち抜いてデビューしていたの。そこでソニー側が何か明和電機で音楽イベントができないかと思っていた時期だった。だけど、明和電機は美術のアーティストで音楽ができない。それであるときに知り合って名刺交換したら、次の日に2人で家にやってきて、「コンサートやろうと思うんですけど、やり方を教えてください」って言われて。

平本 へえー。すごいエピソードですね。

ヲノ それで、こうやったらいいんじゃないと色々と話しているうちに、「じゃあ、オルガンは僕が弾くから」と言っちゃったんだよ(笑)。当時の明和電機の楽器は電池式の打楽器だったからメロディができないので、それなら昔の学校にあったオルガンがいいんじゃないかと足踏みオルガンになったの。ちなみにその楽器はギターラっていって、オルガンに千手観音のようにギターが付いている楽器で。

平本 知ってます。すごく有名な明和電機の楽器の一つですよね。


明和電機の楽器「ギターラ」

ヲノ そうそう。あれを見たときに、ギターを直接弾け!ってツッコミましたけどね(笑)、弾けばいいじゃんと。

平本 俺は小学校のときに習いに行ったんだぞと(笑)。

ヲノ そう(笑)、それで、明和電機は中小企業をモデルにしているから、キーボードをパチパチ弾く人って言ったら経理じゃないかと。それで経理のヲノさんになったわけ。それと同時にいわゆるノイズ・ミュージックの、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンのような打撃音楽、打楽器音楽で「インダストリアルなポール・モーリア」とかやったらコントラストが面白いんじゃないかと提案して。

平本 僕初めて明和電機を見たときに、ヲノさんが経理で音楽監督ってなっていて、何だこの人はと思ったんですよね。

ヲノ 彼らは、最初はいわゆるライヴのしきたりとか知らなかったから、選曲とかアレンジとかそういうことをやっていたんですよ。そんな20代でした(笑)。

平本 なるほど、そのサンプリングでの活動周辺が現在につながっているんですね。ここはヲノサトルの重要な時期ですね。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10