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東京を巡る対談 月一更新

束芋(現代美術家)×平本正宏 対談 日常の中の「隠れた衝動」を引き出す

束芋(現代美術家)×平本正宏 対談

収録日:2013年5月12日

収録地:東京駅八重洲南口高速バスターミナル

対談場所:イノダコーヒー東京大丸支店

撮影:moco

<「あり得ない」ものが「あり得るように」見える>

平本 こうやって面と向かって話すのは初めてだよね(笑)。

束芋 そうだね(笑)。

平本 僕が束芋さんの作品を初めて見たのが、2003年にオペラシティアートギャラリーで開催された『おどろおどろ』なんだよね。ちょうど大学2年生のときで、現代美術とか貪るように見ていた時期で、インパクトもかなり強かったのを覚えている。

そのあと横浜美術館やギャラリー小柳での展示、その他吉田修一さんの『悪人』の挿絵などを見て思ったんだけど、束芋さんの世界って、日常生活に溢れているものがあり得ない結びつきをすることで作り出されているんじゃないかと感じたの。でも、その「あり得ないように見える結びつき」が突拍子もない結びつきでは全然なく、むしろ見たらそれを受け入れてしまうような、妙な納得感を覚える。「あれっ? あり得そう」って思ってしまうような。

公衆便所をテーマにした作品があるよね。その中で、便器の中に水着を着た女性が飛び込んで流れていくシーンがあるのだけど、あれも見ていると衝動として「やってみたいな」と思わされる。物理的には無理なことはわかっているんだけど(笑)。

色々なものが持つ“隠れた衝動”同士が結びつくことで束芋さんの作品が成り立っているのかなと思って。

束芋 そうだね。まさにその通りで、特にそのことは最近意識していること。例えば、公衆便所の中で水が流れる便器と閉ざされた個室があって、そこに人がいた場合に、その人が便器の中に飛び込むなんて絶対あり得ないのだけど、ビジュアル無しで言葉としてモチーフとなるものが並んでいた場合に、これとこれが結びついたらこういうことが起こるかもしれないな、と。どちらかというと、トイレの物理的な大きさなんかは全部取り払って、言葉のみで見て、その中から展開の可能性を探っていくの。

作る上では言葉が先にあることが多くて、気になる言葉や使いたいモチーフを、色々とノートに雑な文字で書き止めた中で、また見返してパラパラめくっていくうちに、ある瞬間、何かと何かが結びついたりしてできていく。

平本 言葉をためたノートがあって、そのノートの時点では言葉と言葉はまだあまり結びついていないの?

束芋 ほとんどの場合、結びついてない。自分の頭の中で想像できるくらいの近さとかイメージにはあまり期待していないの。たまたまノートの上で出会ったものが、私の想像を越えた方向に行けば、それはかなり可能性の感じられるイメージになっていく。

平本 全然別のシチュエーションで思いついた言葉が、自分が思いもしないような結びつきをしたときを求めているんだね。

束芋 そうそう。で、大概ね、そのノートの上でもなかなか結びついてくれない。そういうときは、ノートに書いた時点でそれぞれの言葉からイメージを作っていって、その絵を作っていくときに「何かあるんじゃないか?!」という期待がそこに芽生えてくる。直感的なものなのだけど。いま表現したいものが抽象的にあった場合、このモチーフが何かそれに力を与えてくれるものになりそう、というような。

そこで絵を描き続けて、それが1つの可能性を持った絵として出来上がって、また違うものを描いて、それでそれぞれをコンピューターに入れてみる、スキャンニングして。コンピューター上に置いて色付けたりとか、2つの絵を1つの画面にレイアウトしてみたりして、ぐちゃぐちゃした作業の中で「あっ!」っていう瞬間があって、それが作品の一部になっていく。

平本 出会わせる場をコンピューターにするのはなにかあるの? それまでの作業はノートだったりとアナログというか、手作業だけど。

束芋 ノート上で言葉と言葉が出会ってくれることもあるし、頭の中でたまたま何かと何かが結びつく可能性も無くはない。そこは少ないけど。たぶんコンピューター上だと一番その瞬間が多いから、コンピューターに強引にのせちゃうのだけど。描いたものの、使われないモチーフもあって、それはコンピューターの画面上にのったとき、決定的に「あ、これ、いらない」とわかる。

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